リズム隊とホーンから知る、ジャズの楽器入門

ジャズのサウンドは、楽器の「組み合わせ」そのものだ。コントラバスとドラムが刻む低い地面のうえに、サックスやトランペットの息づかいが人の声のように乗っていく。ピアノは四角いリズムと色彩を与え、一見脇役のギターがソロの主役に変わる瞬間もある。楽器の役割を知ってから聴くと、アンサンブルの輪郭がくっきりと見えてくる。本稿では、ジャズを形づくる主要な楽器をリズム隊とホーンに分けて、基礎から紹介する。 リズム隊 — ジャズの「地面」を走る楽器 コントラバス ジャズの音の床。四分音符でコード進行を歩く「ウォーキング・ベース」が曲の奥行きを作るPhoto: Rolff Massimiliano / Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0) バンドの低音を担うのがコントラバス(ウッド・ベース)だ。ジャズでは弓で擦るアルコ奏法より、指で弦を弾くピチカートが基本。コード進行に合わせて音程を四分音符で歩く「ウォーキング・ベース」は、ソリストの背中を押す心地よい波として機能する。ドラムのスネアと共に、曲の「うねり」を作り出す要だ。 ドラムセット ライド・シンバルの「チーチーチー」で時間を刻む。小規模編成ではスネアのブラシ奏法も耳に残るPhoto: Tore Sætre / Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0) ドラムセットは、ピアノと並ぶ「誰もが思い浮かべるジャズの主役」だ。ハイハットとライド・シンバルで流れるような時間を刻み、スネアが2拍目と4拍目で「バックビート」を打ち込む。ルーディメント(基本打法)の複雑な組み合わせから、ひとりのスウィングが生まれる。アート・ブレイキーのように、シンバルを避けてスネアとバス・ドラムだけで巨大なうねりを作るドラマーもいる(ハードバップの黄金時代の項参照)。 ピアノ ピアノはジャズの「万能楽器」だ。左手はベース・ライン、右手はコードとメロディを同時に弾き分ける。伴奏の「コンピング」では、メロディの合間に和音をはめ込み、ソリストに色彩と呼吸を与える。ビル・エヴァンズのトリオのような、極限までそぎ落とされた編成では、ピアノが曲の主役そのものになる(モーダル・ジャズの挑戦)。 ギター ギターは、ビバップ期までのジャズではリズム伴奏(チャンク)が主役だった。しかしウェス・モンゴメリーが親指でオクターブを弾く「渋い」ソロ・スタイルを広め、ジョー・パスらによって歌うようなソロ楽器として完成された。電気で音を増幅するエレクトリック・ギターは、ベース同様に現代ジャズの定番だ。 ホーン・セクション — ジャズの「体温」を運ぶ楽器 サクソフォン ビバップ以降、ジャズの主役に躍り出たサクソフォン。アルトとテナーが二大巨頭だPhoto: Nabokov / Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0) チャーリー・パーカーがアルトで、ジョン・コルトレーンがテナーで、ジャズの即興を書き換えたのがサクソフォンだ。木管に属しながら金管のような力強い音圧を持ち、「人間の声に最も近い」と評される。ビッグバンドではソプラノからバリトンまでを「サックス・セクション」として4〜5本重ね、厚いブロック和音を鳴らす。 トランペット ニューオーリンズ・ジャズ以来、ジャズの「顔」であり続けたトランペットPhoto: Jessep242 / Wikimedia Commons (CC BY 2.0) サックスより明るく鋭い音色で、ジャズの歴史の中心にいるのがトランペットだ。ルイ・アームストロング、マイルス・デイヴィス、クリフォード・ブラウンと、時代ごとの「その男の声」を担ってきた。ミュート(弱音器)を差し込めば、蜂の羽音や泣き声のような多彩な表情を生み出す。ニューオーリンズ時代から連なる伝統を、いまの路上でも見ることができる。 トロンボーン スライド管を伸び縮みさせて音程を変えるトロンボーンは、「歌う」より「語る」楽器に近い。グリッサンド(音を滑らせること)のユーモアと、ハード・バップで正統派ソロを確立したJ.J.ジョンソンの気品が、この楽器の両極にある。 クラリネット ニューオーリンズ・ジャズとディキシーランドでは、クラリネットが主旋律を彩っていた。シドニー・ベシェの疾走感あふれるソロ、スウィング期に「キング・オブ・スウィング」と呼ばれたベニー・グッドマンのビッグバンド。サックスと姿が似ていながら、木管ならではの丸く柔らかな音色で、いまもジャズの脇役から主役までをこなす。 編成が音楽そのものを決める ジャズの音は、楽器の数を変えるだけでがらりと表情を変える。ピアノ・トリオ(ピアノ+コントラバス+ドラム)は室内楽のように繊細になり、そこにサックスやトランペットが加わると「コンボ」と呼ばれる小編成の会話になる。さらに17人前後が揃うビッグバンドでは、セクション同士が音のブロックをぶつけ合う、劇場的なダイナミズムが生まれる。楽器を知ることは、編成の設計図を知ることでもあるのだ。 まとめ ジャズの楽器は、それぞれが「声」と「役割」を持っている。ベースとドラムが地面を走り、ピアノとギターが色彩を与え、そこにサックスやトランペットが人間の息吹を吹き込む。次にジャズを聴くとき、耳を「どの楽器のあとを追うか」に絞ってみてほしい。ひとつの音色に集中するだけで、アンサンブルの対話が見えてくるはずだ。 関連記事: ジャズ名盤入門、最初に聴きたい10枚を時代順に · アート・ブレイキーとブルー・ノート黄金時代、ハードバップの熱を名盤でたどる · モーダルジャズという挑戦 — 『Kind of Blue』から『A Love Supreme』へ · 「写真から消された5人目の男」Alan Boguslavskyのステージ · バレエフラットの次はジャズシューズ、2026年の足元に響く70年代

2026年9月24日 · 1 分 · 78 文字 · kingsworksub-jpg

モーダルジャズという挑戦、『Kind of Blue』から『A Love Supreme』へ

1964年、ヘルシンキのステージでトランペットを手にしたマイルス・デイヴィス。モーダル・ジャズは、この男の「次の一手」から始まったPhoto: Reijo Koskinen / Lehtikuva(パブリックドメイン)/ Wikimedia Commons ジャズの即興は、長いあいだ「コード進行の上を走るもの」だった。4小節ごとに巡ってくるコードの流れに乗っかって、その上を自由に滑る。ジャズの神髄は、この制約の中でいかに自由度を出すかにある、と誰もが思っていた。ところが1959年、この当たり前を、まるごとひっくり返すアルバムが現れる。マイルス・デイヴィス『Kind of Blue』。コード進行を捨てて、旋法——モードの上でじっくりと語るという、それまで誰もやらなかった賭けに出たのが、モーダル・ジャズの挑戦だった。 コード進行を捨てる、という発想 モーダル・ジャズとは何か。もっとも簡単に言えば、曲の骨格を「コードの移り変わり」ではなく、「スケール(音階)の風船」で作る方法だ。たとえばソリストにドリア旋法という、ある特定のふくらみを持つ音階をひとつ渡し、その上を延々と歩かせる。「ドリア旋法」といっても、ピアノの白鍵だけを使うレの音階——暗く翳ったクロマチックさに、わずかな透明感が混ざった、その風船の上で、ソリストはコードの縛りから解放されて、音を息のように吐き出していく。 この考え方がどこから来たかと言えば、理論家のジョージ・ラッセルが1953年に発表した『Lydian Chromatic Concept of Tonal Organization』(リディアン・クロマチック・コンセプト)に遡る。垂直方向(コード)ではなく、水平方向(スケール)に音楽を考えるこの理論は、当時若さあふれるマイルスを強く魅了した。長いコード進行のたびに頭を回転させるハードバップへの行き詰まりを、マイルスは感じていた。そこで彼が選んだのが「もっと間(ま)を取る音楽」だった。 『Kind of Blue』— 一度きりのテイクで 『Kind of Blue』のセッションから4年後に、自らの組曲『A Love Supreme』を録音したジョン・コルトレーン。モーダルという空気は、彼の祈りを運んだPhoto: Impulse! Records(パブリックドメイン)/ Wikimedia Commons 1959年3月2日と4月22日。ニューヨークの30番街スタジオで、マイルスは録音する。そろえた顔ぶれは、テナーにジョン・コルトレーン、アルトにキャノンボール・アダレイ、ピアノにビル・エヴァンズ(一部の曲ではウィントン・ケリー)、ベースにポール・チェンバース、ドラムにジミー・コブ。エヴァンズは後に、この「音符の束」を渡されたときの胸弾みを思い出している。楽譜すらほとんどなく、マイルスは各曲のモードをひとつずつメンバーに伝え、あとは「その上で自由に鳴らせ」と言った。 結果は、各曲ほぼ一発録り。みんなとにかく一回録って、そのまま採用された。レコード史上、これほどリラックスした緊張感を抱えたセッションは他にない。『So What』のベース・ラインがユニゾンで刻まれる冒頭、『All Blues』の6/8拍子のゆらぎ、『Flamenco Sketches』の5つのモードを順繰りに渡っていく静かな饗宴——すべてが、一度のめぐりあわせの中で生まれた。冒頭4小節の、浮遊感を帯びたピアノのヴァンプは、ビル・エヴァンズの自作曲『Peace Piece』と同じ和音から借りてきたものだ。完成したアルバムは1959年8月17日に発売され、ジャズ史上に残る大ヒットとなる。全米だけで500万枚を超える売上と、世界中のクラブで流れ続けるその音は、“モード"という概念を一気に現実のものにした。 ジョン・コルトレーン — コードの果てから祈りへ この空気を、誰よりも大きく吸い込んだのがコルトレーンだった。彼は『Kind of Blue』の直後、自分自身の技巧の極限に挑む『Giant Steps』(1960)で、コード進行を縦横無尽に飛び回る。しかし、その裏側で大きく心を動かされていたのは、モーダルという「広い空間で息をする」方法だった。1957年に経験したという「神による覚醒」は、彼の音楽を単なる演奏から、祈りへと変えていく。 1961年、コルトレーンはインパルス!レコードに移籍。同年11月、ヴィレッジ・ヴァンガードという小さなクラブのステージで、マッコイ・タイナーのピアノとエルヴィン・ジョーンズのドラムに支えられながら、13分を超える『India』や14分におよぶ『Impressions』をぶっ通しで奏でた。コードにとらわれないモーダルな空間そのものを、彼は誰よりも長く、誰よりも深く泳いだ。いわゆる「シーツ・オブ・サウンド」の洪水から、たった数音の沈黙にまで、彼の音は広がっていく。 そして1964年12月9日の夜。ニュージャージー州エングルウッド・クリフスにあるヴァン・ゲルダー・スタジオで、コルトレーンがひとつの組曲を録音する。『A Love Supreme』。『Acknowledgement』『Resolution』『Pursuance』『Psalm』の4部から成る、神への祈りと感謝の音楽だ。冒頭のテーマは、シンプルな3音——“A-Love-Su-preme"と称える、誰にでも口ずさめる動機である。ここでコルトレーンは、技巧の全てを煙のように溶かし、音の一つ一つを祈りに変えた。このアルバムは1970年までに50万枚、そして2021年には100万枚を突破して、1960年代のジャズ・アルバムとして史上初のプラチナ認定を受けた。彼は「私は善のための力になりたいんだ」という詩を、このアルバムに残した。 広がっていくモーダルの波 モーダル・ジャズは、ひとりの天才の趣味では終わらなかった。マイルス自身はその先を、さらに深く探し続ける。1969年の『In a Silent Way』、1970年の『Bitches Brew』は、モーダルの忘却から生まれた音が、電気的ファンクとロックの接続にまで発展した証だ。一方で、ハービー・ハンコックは1965年に『Maiden Voyage』を発表。タイトル曲のエオリア旋法の上を、フレディ・ハバードのトランペットとジョージ・コールマンのテナーが、船出するように滑っていく。ウェイン・ショーターの『Speak No Evil』(1964年録音)も、ヴァン・ゲルダーのエンジニアリングに支えられたモーダル基盤の名盤だ。コルトレーンの右腕だったマッコイ・タイナーは、コードを完全4度積みの塊で支えるという、モーダルの革命に特有の厚みを生み出した。 そして、この「横の広がり」の思想は、ジャズの外まで波及していく。アンビエントの作家がモーダル・ジャズの空間を思い浮かべるとき、ミニマル・ミュージックの祖と呼ばれるスティーヴ・ライヒがコルトレーンに魅了され、浄土の彼方でロバート・グラスパーやカマシ・ワシントンが、この伝統を21世紀のステージに接続している。モーダル・ジャズは、時代の余白だ。閉塞したコード進行から音楽を解き放った、いまだ進行中の革命。 ビル・エヴァンズと、個の感受性 『Kind of Blue』の「もうひとりの主役」ビル・エヴァンズ。彼の抒情的なピアノが、モーダル・ジャズに叙情の体温を注いだPhoto: Steve Schapiro(パブリックドメイン)/ Wikimedia Commons モーダル・ジャズの物語を語るうえで、ビル・エヴァンズを外すわけにはいかない。彼は『Kind of Blue』のセッションに、正式な場が設けられる前から立ち会っていたと言われるほどの参加者だ。彼のピアノは、当時のハード・バップにはなかった叙情性——言葉にできないものをそのまま鍵盤の上でつまみ上げるような、繊細でprivateな響きを、モーダルという空間の上に徹底して乗せた。「私の音楽は、私自身の精神の表現だ——私の信仰、私の知識、私の存在」。これはジョン・コルトレーンの言葉だが、エヴァンズの感受性にも通じる何かがある。彼はやがてソロ・トリオという形態で、モーダル以降の抒情を極めていく。1960年代にはいまだ多くのミュージシャンを苦しめていた薬物から、ようやく抜け出した彼のピアノは、いっそう透明だった。 ...

2026年9月24日 · 1 分 · 87 文字 · kingsworksub-jpg

アート・ブレイキーとブルー・ノート黄金時代、ハードバップの熱を名盤でたどる

ハードバップの黄金期を支えたドラマー、アート・ブレイキー。彼はシンバルを避けてスネアとバスドラムで「うねり」を作り、バンド全体を持ち上げたPhoto: Shaw Artists Corporation(パブリックドメイン)/ Wikimedia Commons 「ハードバップ」と聞いて、どんな音を思い浮かべるだろうか。高らかに吹き鳴らされるホーン、たたみかけるスネアの切れ味。それなのに、なぜか鼻歌を口ずさみたくなるような、歌心のあるメロディ。1950年代から60年代のニューヨークで、黒人ミュージシャンたちはその熱を音に封じ込めるように、誰よりも汗を流しながらスイングしていた。その音楽の名前が、ハードバップ。本稿では、この黄金時代の中心にいたドラマー、アート・ブレイキーと、彼の率いるジャズ・メッセンジャーズ、そしてすべての音を記録に残したレーベル、ブルー・ノートの物語を、名盤たちとともにたどってみたいと思う。 ビバップの熱を、もう一度燃やす — ハードバップとは何か ハードバップは、ひとことで言えば「ビバップの熱を、もう一度燃やし直した音楽」だ。1940年代にチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーらが切り拓いたビバップは、超絶技巧と複雑なコード進行を武器に、即興の可能性を一気に広げた。だが、その技巧の高さはどこか冷たく、スウィング期まで踊れて楽しかったジャズから離れた大衆を、時には置き去りにした。 クール・ジャズやウエスト・コースト・ジャズと呼ばれた、白人ミュージシャン中心の洒脱でソフトな響きが流行すればするほど、黒人ミュージシャンたちの内部には反発が募っていく。彼らが立ち戻ったのは、ゴスペル、ブルース、作業歌、R&B、そして黒人霊歌——自分たちの人生にいちばん近い音楽だった。コード進行に乗せて自由に即興する姿勢はビバップと同じでも、その足元には常に教会のハミングと、ブルースのうねりがある。ホットで、ドライヴィングで、しかもメロディアス。これがハードバップだ。 1955年のチャーリー・パーカーの死で、ビバップはひとつの時代を終えた。その穴を埋めたのがハードバップだった。聴きやすさと、個性や情熱の表現を両立させたこの音楽は、大衆性と芸術性を同時に手に入れた、ジャズ史上まれな「黄金の中間」だ。その誕生を告げる一枚としてよく語られるのが、アート・ブレイキーの『A Night at Birdland』(1954、ブルー・ノート)。録音場所は、モダン・ジャズの聖地となったバードランドのライブハウス。ここから、長い黄金時代が幕を開ける。 アート・ブレイキーと「移動する音楽院」 1960年12月、アムステルダムのコンセルトヘボウに立つジャズ・メッセンジャーズ。この当時のトランペット席にはリー・モーガンがいたPhoto: Ben van Meerendonk / IISG(CC BY-SA 2.0)/ Wikimedia Commons 1919年、ピッツバーグ生まれのアート・ブレイキーは、最初はピアノを弾いていた。よくある少年時代の思い出話——ではない。地元クラブのオーナーに「ピアノをやめろ」と、銃を示しながら命じられたのが、ドラムへの転向のきっかけだったというのだから、とんでもない出世作である。しかも、独学で早くも14歳には自前のダンス・バンドを率いていた。1940年代にはビリー・エクスタイン楽団で腕を磨き、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演する、モダン・ジャズの中心人物のひとりになっていく。 そして1954〜55年、ピアニストのホレス・シルヴァーとともに初代ジャズ・メッセンジャーズを結成。バードランドでの常打ち公演でたちまち人気を集め、1956年にシルヴァーが自分のバンドへ去ったあとは、ブレイキーが単独のリーダーとして陣頭指揮を執るようになる。この編成は、以後メンバーを変えながら延々と続き、奇しくも彼の人生のほとんどと重なることになる。 ジャズ・メッセンジャーズの真骨頂は、若手の登竜門としての機能にあった。「移動する音楽院」——あるいは「ブレイキー大学」とまで呼ばれたこのバンドは、リー・モーガン、ベニー・ゴルソン、ウェイン・ショーター、フレディ・ハバード、キース・ジャレット、さらにはウィントン&ブランフォード・マルサリス兄弟やテレンス・ブランチャードまで、150人を超える卒業生をジャズ界に送り出した。ブレイキーは講師ではなく、いつも最前列で演奏し続ける学長だった。 彼自身はその理由を、こう語っている。「若い連中とやっていくのがいいんだ。頭がずっと活性化する」。老練のドラマーが、自分よりも二回り若い連中と組むのは、音楽を若いまま保つためだったのだろう。彼のドラムは、シンバルをあまり叩かず、スネアとバスドラムで「ナイアガラ・ロール」と呼ばれる洪水のようなうねりを作り、ハイハットを2拍目と4拍目で刻む。四肢を完全に独立させたポリリズムの中に、西アフリカとキューバの血が脈打っている。聴く人間を疲れから洗い流す演奏、それが彼の流儀だった。「演奏っていうのは、一日働いて疲れた人の、日々のほこりを洗い落とすためのものなんだ」。こんな言葉も残している。1990年、肺癌のためニューヨークで死去。71歳だった。 ブルー・ノート — 家族のようなレーベル この音楽の黄金時代を、陰から支えていた記録者がいる。1939年、ニューヨークでアルフレッド・ライオンが立ち上げた小さなレーベル、ブルー・ノートだ。ライオンはナチズムの波を避けて海を渡った、ドイツ系ユダヤ人の移民だった。彼が率いたレーベルは、ビジネスの色をほとんど持たずに、「音楽そのもの」「アーティストそのもの」を尊重する家族的な空間として育っていく。 ここを彩ったのが、3人の才能だった。1939年に同じくナチス・ドイツを逃れて合流したフランシス・ウルフ。彼はスタジオの全セッションを写真に収め、レーベルのすべての記録に「一瞬の表情」を与えた。1955年、12インチLPという新フォーマットに対応するためにデザイナーのリード・マイルスを起用すると、彼は後に約400〜500枚のジャケットを手がけることになる。ウルフのモノクロ写真と、マイルスの大胆な現代美術的なタイポグラフィ。あの「青い影」のジャケットを思い浮かべるとき、その多くはこの二人の仕事なのだ。そして録音エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダー。彼は1950年代中期までニュージャージー州ハッケンサックの自宅リビングを、1959年以降は自ら取得したエングルウッド・クリフスのスタジオを使って、モダン・ジャズの名演をことごとく磁気テープに刻んだ。パン・アメリカン航空のジャンボ機の音を避けるために天井に吊り下げられていたマイクの列は、ミュージシャンたちの圧倒的な信頼を集めていた。 レーベルは時代の荒波で一度は休眠状態になったが、1984年にブルース・ランドヴァルが再始動させ、2012年には音楽プロデューサーのドン・ワズが社長に就任して、いまだに現役だ。彼らの世代まで、この「家族」の系譜は続いている。 名盤たちが語る黄金期 1963年3月、デン・ハーグのコンサートホールにて。この時期のホーンセクションは、トランペットにフレディ・ハバード、テナーにウェイン・ショーターがいた黄金の布陣だったPhoto: Fotopersbureau De Boer / Noord-Hollands Archief(CC0)/ Wikimedia Commons ハードバップを語るうえで外せない一枚が、ジャズ・メッセンジャーズの『Moanin’』(1958)だ。タイトル曲を書いたのは、このバンドのピアニスト、ボビー・ティモンズ。教会の賛美歌のような哀愁を帯びたテーマが、4小節ごとに聴く者の胸をつかむ。「Moanin’」という言葉は「うめく」こと。文字どおり、ブルースが全身でうめいている。「Blues March」もまた、このバンドの看板曲。ホーン隊が戻ってくる音を思い起こさせる行進曲調のテーマに、ブレイキーの圧倒的なドラムが絡む。1955年には『The Preacher』で、当時「古臭い」と反対したレーベル主のライオンに「絶対に録らせろ」と押し切ったという逸話もある逸品。結果は大ヒットで、ライオンは自分の判断を間違えたことを笑いながら認めたという。 鋭いソロとモダンな質感を求めるなら、リー・モーガン『The Sidewinder』(1964)だ。10代からメッセンジャーズで猛威を振るった天才トランペッターが、ブルージーな"サイドワインダー節"を軸に据えたこの曲は、瞬く間にブルー・ノート初のクロスオーバー・ヒットになった。ジャズを聴かない人さえ踊ってしまう、妙に身体に突き刺さるグルーヴがある。切れ者揃いの編成——ジョー・ヘンダーソンのテナー、バリー・ハリスのピアノ、ビリー・ヒギンズのドラム——が、ゆったりしたテンポの中でこれ以上ない密度を保っている。 「家族」のもうひとりの主役、ホレス・シルヴァーの『Song for My Father』(1965)は、カーボベルデ出身の父に捧げた、ボサノヴァ調の叙情的な名曲だ。陽の光が降り注ぐ午後の海のような幸福感。ハードバップの火照りが、ここでは柔らかなクールさに転調している。これもまた、このレーベルとこの時代にしか生まれなかったバランスだ。 一方、ピアニストのソニー・クラーク『Cool Struttin’』(1958)は、そのタイトルどおりクールに決めている。だが、この美しく洗練されたピアノを弾いたクラークは、31歳で夭折してしまう。黄金期の横顔には、こうした儚さも刻まれている。そして1964年、フレディ・ハバードを迎えた『Free for All』に至っては、タイトル曲の冒頭からハバードとショーターが火花を散らす、ハードバップ最大瞬間風速の一枚。ドラムの洪水がリーダーの名を告げないまま、全員が自由に暴れる。このバンドは、決して「ブレイキーがリードするバンド」ではなく、いつも「全員が沸騰しているバンド」だった。 おわりに — まず何から聴けばいいか モダン・ジャズの入り口としては、正直、どこから入っても間違いがない。私がもし「今日からハードバップを聴きたい」と言われたら、まず勧めるのは『The Sidewinder』だ。テーマの歌いやすさと、突き刺さるスネアの塩梅が、はじめての人にも分かりやすい。次に『Moanin'』を続ければ、このジャンルの熱と哀愁の両方が、一晩でだいたい体に入ってくるはずだ。そして気がつけば、あなたもリー・モーガンのソロの続きを、頭の中で吹いているだろう。 コード進行を追うよりも、音符の一つ一つが持つ「意味」を感じる音楽。ハードバップは、知的でいて、決して博識ぶらない。それは1950年代の黒人コミュニティの声であると同時に、いまの私たちにも手渡しできる、体温の記録だ。アート・ブレイキーが最後まで若者と演じ続けようとした音楽院は、いまだに入学自由。今日この夜、ブルー・ノートの青いジャケットに、あなたの席は用意されている。 関連記事: ジャズ名盤入門、最初に聴きたい10枚を時代順に · モーダルジャズという挑戦 — 『Kind of Blue』から『A Love Supreme』へ · 「写真から消された5人目の男」Alan Boguslavskyのステージ · バレエフラットの次はジャズシューズ、2026年の足元に響く70年代 · リズム隊とホーンから知る、ジャズの楽器入門

2026年9月24日 · 1 分 · 83 文字 · kingsworksub-jpg

Héroes del Silencioの写真から消された5人目、ギタリストAlan Boguslavskyの軌跡

2007年、セビリアのオリンピック・スタジアム。再結成「World Tour 2007」のステージ。黄金期の4人編成の向こうに、5人目のギタリストの姿はないPhoto: José Porras (Elemaki) / Wikimedia Commons (CC BY 3.0) Héroes del Silencio。スペイン語圏ロックの金字塔にして、1990年代に世界中のスタジアムを埋めた4人組。そのラインナップはよく知られている。ボーカルのEnrique Bunbury、ギターのJuan Valdivia、ベースのJoaquín Cardiel、ドラムのPedro Andreu。だが、あなたが彼らのプロモーション写真を見るとき、そこに映っていない人物がひとりいる。彼らと共にステージに立ち、リフを弾き、歴史的なアルバムを一緒に作ったのに、カメラの前からだけ姿を消していた男。Los Ángeles生まれ、メキシコ育ちのギタリスト、Alan Boguslavsky——「5人目の男」だ。 なぜ彼は公式の写真から消されたのか。なぜバンドは5人でいて、記録には4人しか残さなかったのか。そして今、その男は何をしているのか。答えを探す旅は、1992年のメキシコシティから始まる。 1992年、メキシコでの出会い すべては、ひとつの「たまたま」から始まった。バンドが初めてメキシコ遠征を行った1992年、ドラムのPedro Andreuが現地のミュージシャンと親しくなり、翌日、その男をコンサートに招いた。男はそのライブに心を打たれ、終演後、楽屋まで挨拶に訪れた。名前を、Alan Boguslavskyといった。これが、すべての始まりだった。 当時の彼はメキシコのバンドEl Huitlacocheで活動していた。ただのアンダーグラウンドバンドではなかった。ピンクフロイドを思わせる凝ったジャケットを、自らのアイデアで作り上げるような連中だった。そして彼の心にあったのは「裕福なロックスターになりたい」という欲ではなく、「ちゃんと自分の作品を世に出す音楽家でありたい」という、静かで確かな気持ちだった。 なぜ第2ギタリストが招かれたのか 1993年、バンドは3枚目のアルバム『El espíritu del vino』の制作に入っていた。Phil Manzaneraがプロデュースしたこの作品は、これまでのシンプルなロックから一歩踏み込んだ、複雑な書き分けをした意欲作だった。問題は、それが生きたステージでどう鳴るか。ライブで再現するには、ギター1本では足りなかった。 「ギターを1本追加しよう」。そう提案したのはJuan Valdiviaだった。2014年のインタビューが伝えるところによれば、彼が正式なメンバーとして迎え入れられるまでには、いくつかの"入団テスト"をクリアしなければならなかったらしい。ジョイントを巻く、チェスで勝つ、Valdiviaの酒場に付き合う——。どれも本業の腕前とは関係ない。だが、そこにこそ本物の人間関係があった。 Avalanchaへの作曲参加 招かれた男は、単なるツアーメンバーでは終わらなかった。1995年発表のラストアルバム『Avalancha』では、作曲者として名を連ねる。リードシングル『Avalancha』、そして『Días de borrasca』の主要リフは、彼の手によるものだ。本人はこう語っている。「この2曲は僕のいちばんの貢献だ」と。 『Avalancha』はLos Ángelesで、Bob Ezrinをプロデューサーに録音された。バンドが英語圏へのクロスオーバーも視野に入れていた時期だった。それまでの鬱屈したダークさから、スペイン語ロックの力強さを全面に打ち出した傑作として知られる。Boguslavskyはこの作品を挟んで、バンドの一員としての実感を深めていった。だが、奇妙なことがひとつあった。プロモーション用の公式写真に、彼の姿が写っていなかったのだ。映るのはいつもメンバー4人の構図。メキシコ版のジャケットにだけ、彼の顔があった。 音楽は本物の5人編成だった。だが、カメラの前では4人でいなければならなかった。この不完全な"車座感"は、彼がバンド内で抱えていた微妙な立ち位置を、今に伝えている。 解散後、Bunburyのソロへ 1996年、バンドは解散する。それからほどなく、Bunburyはソロ第1作『Radical Sonora』の制作に取りかかった。そして、そのギターを任されたのが、ほかならぬBoguslavskyだった。「ギターパートは全部お前に任せる」。Bunburyはそう言ったという。エレクトロニクスとドラムンベースの色彩を帯びたこの作品は、当時のファンを驚かせたが、ギターの音は新しい世界観にしっかりと説得力を持っていた。 Boguslavsky自身もこの仕事を楽しんでいた。後年、彼はこう振り返っている。「何年経っても聴き直すたびに驚かされる、良い作品だった」。それが、率直な印象だったという。 自分の足で、Bogusflowへ だが、独立のときは近づいていた。忙しくなるほど、雇われギタリストではなく、自分のバンドを持ちたいという思いが募っていったのだろう。1997年、Bunburyのサポートバンドで肩を並べていたCopi Corellano(キーボード)、Ramón Gacías(ドラム)、Del Morán(ベース)とともに、Bogusflowを結成する。当初は"JADE"という名前を考えていたが、すでに商標が使われており、この名前に落ち着いた。 Bogusflowの音楽は、どちらかというとスピリチュアルで内向的だった。Jeff BuckleyやP.J. Harveyの影響を感じさせる、まっすぐで弱さの残るヴォーカル。1999年には『Bogusflow』とEP『The dream of the dead』を発表し、当初はFIBのメインステージに立つなど順調だった。しかしBunburyのツアーと日程が重なるようになり、2001年、事実上の休止状態へ入る。 そして、この頃の経験が、彼の音楽家としての方向性を静かに決めていった。 The Art of Waitingの孤独な美しさ 2002年、Boguslavskyは初のソロアルバム『The Art of Waiting』をリリースする。この作品は、彼の音楽家人生の中でも特別な立ち位置にある。自宅で全パートをひとりで演奏し、録音し、ジャケットの絵からデザインまでもすべてを自身の手で仕上げた。本人は、アルバムのライナーノーツにこう記している。「これは自分の存在のマニフェストであり、誠実さによる浄化のようなものだった」。 ...

2026年9月24日 · 1 分 · 121 文字 · kingsworksub-jpg