夜、机に向かって何かを書こうとするとき、私はたいてい最初に音楽をかける。キーボードを打つ前に再生ボタンを押すのが、仕事を始める合図のようになっている。ところが、ある晩、気に入っている歌ものの曲を流しながら資料を読んでいたら、同じ段落を3回読み直しても内容が頭に入ってこないことに気づいた。曲を止めると、さっきまで霧の向こうにあった文章が、急にくっきりと読めるようになる。音楽が助けになる日もあれば、こうして邪魔になる夜もある。
この違いはどこから来るのだろう。好きな曲なのに、なぜ読む作業とは相性が悪いのか。逆に、単純な作業のときには、なぜ音楽があると手が速くなる気がするのか。この記事では、作業をしながら音楽を聴くとき、耳と頭がいったい何をしているのかを、心理学の実験と、音楽の側からの試みの両方から整理してみたい。読み終えるころには、明日の作業でどんな音を選べばいいのか、少し見通しが立つはずだ。
歌詞のある曲で、読んでいた行を見失う理由

心理学には「無関係音効果」と呼ばれる現象がある。聞く必要のない音が流れているだけで、目で見たものを覚えておく力が落ちてしまう、というものだ。1976年にコールとウェルシュが、画面に順番に出てくる文字や数字を覚えさせる実験で、背景に人の話し声が流れていると成績が下がることを示した。1980年代の初めにはサラメとバドリーが同じ問題を詳しく調べ、意味の分からない外国語の話し声でも成績が落ちること、そして一定のまま鳴り続ける雑音より、話し声のほうがずっと邪魔になることを確かめている。
ここで大事なのは、邪魔をするのは音の大きさではなく、音の「変化」だという点だ。換気扇の低い唸りのように、ずっと同じ調子で鳴っている音には、頭はすぐに慣れて意識から外してしまう。ところが、話し声や歌のように、ひとつひとつの音節が切り替わりながら続いていく音は、聞かないようにしていても頭のどこかがその区切りを拾い続ける。後の研究では、こうした「状態が変わり続ける音」ほど、順番や言葉を覚えておく作業を乱しやすいことが繰り返し確かめられてきた。
文章を読むとき、私たちは頭の中で小さく文字を声に出すようにして、言葉を一時的に置いておく場所を使っている。そこへ歌詞という別の言葉が流れ込んでくると、同じ置き場を取り合うことになる。特に母語の歌詞は、意味まで勝手に理解されてしまうので、なおさら割り込みが強い。私が同じ段落を3回読み直したのは、集中力が足りなかったからではなく、頭の中の小さな作業台に、歌い手の言葉が次々と置かれていたからなのだと思う。
1953年にコリン・チェリーが報告した「カクテルパーティー効果」も、この話とつながっている。左右の耳に別々の話を聞かせ、片方だけを追いかけてもらうと、もう片方の内容はほとんど覚えていない。それでも、自分の名前のような大事な言葉が聞こえると、ふっと注意がそちらへ向く。耳は、聞いていないつもりの音もずっと見張っている。だからこそ、言葉を含む音楽は、言葉を扱う仕事の隣に置くと、静かに注意を奪っていく。
モーツァルトを聴くと頭が良くなる、という話のその後
作業用の音楽といえば、「モーツァルトを聴くと頭が良くなる」という話を思い出す人も多いかもしれない。もとになったのは、1993年に科学誌に載ったラウシャー、ショウ、キーの3人による短い論文だった。学生にモーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448」を10分間聴かせたあと、紙を折って切ったときの形を当てるような空間の問題を解かせると、無音や単調な音声のあとより点数が少し高かった、という内容だ。しかも、その効果が続いたのは10分から15分ほどだった。
ところが、この話は一人歩きをする。赤ちゃんに聴かせるクラシックのCDが売れ、頭を良くする音楽として広まっていった。その一方で、ほかの研究者が同じ実験を繰り返しても、はっきりした結果はなかなか出なかった。1999年には16本の研究をまとめた分析で、効果はごく小さく、空間の問題に限られると報告された。2010年には39本、合わせて3,000人ほどの結果をまとめた分析が出て、モーツァルトに特有の効果はほとんど見当たらないという結論になっている。
では最初の実験で起きていたことは何だったのか。2001年にトンプソン、シェレンバーグ、フセインの3人が出した答えは分かりやすい。明るく速い曲を聴くと、気分が上向き、体が少し目覚める。そうした「覚醒と気分」の違いをそろえて比べると、モーツァルトの効果は消えてしまった。明るいテンポの曲なら何でもよく、退屈な音声のあとより気分が良いぶん、問題にも前向きに取り組めた。それだけのことだったわけだ。
私はこの結末を、少しがっかりしながらも、むしろ使える話だと受け止めている。音楽が特別な栄養のように頭を賢くするのではなく、作業の前に気分と体の調子を整える道具として働く。そう考えると、朝の始業前に好きな曲を1曲だけ聴いてから机に向かう、というような使い方には、ちゃんと意味があることになる。
同じ音楽でも、効き方は人と作業で変わる
背景の音楽の効き方は、聴く人の性格によっても変わる。1997年にファーンハムとブラッドリーが行った実験では、内向的な人と外向的な人に、ポップスを流しながら文章読解と記憶の課題に取り組んでもらった。すると、内向的な人は音楽があると読解の成績も、時間をおいて思い出す成績も目に見えて下がったのに対し、外向的な人はそれほど影響を受けなかった。
この違いは、人がそれぞれ心地よく感じる「刺激の量」が違う、という考え方で説明されている。もともと周りの刺激に敏感な人は、音楽が加わると頭の中がにぎやかになりすぎる。反対に、刺激が少ないと退屈してしまう人にとっては、音楽がちょうどよい張りを足してくれる。カフェのざわめきの中でこそ仕事がはかどる人と、図書館の静けさでないと落ち着かない人がいるのは、わがままではなく体質の違いなのだと思う。
2011年には、ケンプフェ、ゼードルマイアー、レンケヴィッツの3人が、背景音楽が大人に与える影響を調べた40本ほどの研究、3,000人を超える結果をまとめて分析した。全部を平均すると、音楽の効果はほぼゼロになる。ただし、中身を分けて見ると、はっきりした傾向が出てくる。文章を読む作業には悪く働き、記憶にも小さくマイナスに働く。一方で、気分を上げることや、運動の成績には良い方向に働く。曲のテンポが速いと、作業のテンポもそれにつられて速くなる。
つまり、「音楽を聴きながらだと集中できるか」という問いには、ひとつの答えがない。言葉を読む、覚えるといった作業にはできれば静けさを、手を動かす単純な作業や体を使う時間には音楽を。同じ人でも、作業の種類によって、耳に渡すものを変えたほうがいいということになる。
家具の音楽、サティが「聴かないでくれ」と頼んだ夜

背景に流れる音楽を、最初から意図して作ろうとした作曲家がいる。フランスのエリック・サティだ。1917年、サティは「家具の音楽」という考えを打ち出した。部屋に置かれた椅子や壁紙のように、そこにあるけれど誰も注目しない音楽。耳を傾けるための芸術ではなく、空間の一部として鳴っている音を作ろうとした。
その試みが人前で披露されたのは、1920年3月8日のことだった。パリのバルバザンジュ画廊で、詩人マックス・ジャコブの劇が上演され、その幕間にサティの家具の音楽が演奏された。サティは観客に、この音楽には耳を貸さず、いつも通り歩き回ったり話したりしていてほしいと前もって伝えていた。ところが、音楽が始まると、観客は話をやめて席に戻り、静かに聴き入ってしまう。サティは慌てて客席の間を歩き回り、「話して、話して、歩いて、聴かないで」と促したと伝えられている。
私はこの話がとても好きだ。人は音楽が鳴ると、それが背景のつもりで作られていても、つい耳を向けてしまう。音楽を「聞き流してもらう」ことは、作る側が思うよりずっと難しい。作業用の音楽を探すとき、名曲ほど邪魔になることがあるのは、まさにこの観客たちと同じことが自分の頭の中で起きているからなのだろう。サティは100年以上前に、ながら聴きのいちばん厄介なところを、失敗という形で見せてくれていた。
無視できて、しかも面白い。イーノが空港のために作った音

サティの考えを半世紀後に別の形で引き継いだのが、イギリスの音楽家ブライアン・イーノだった。きっかけは1975年の交通事故だといわれている。けがでベッドから動けなくなっていたイーノのもとに、友人のジュディ・ナイロンが18世紀のハープ音楽のレコードを持ってきた。友人が帰ったあと、音量がとても小さいことに気づいたが、起き上がって直すことができない。仕方なくそのまま聴いていると、ハープのかすかな音が、窓の外の雨音と混ざり合い、部屋の空気の一部のように聞こえてきた。
この体験から生まれたのが、同じ1975年の『Discreet Music』であり、1970年代の終わりに発表された『Ambient 1: Music for Airports』だった。空港の待合室で流すことを想定したこの作品で、イーノは環境音楽の条件として、聴き手が注意を向ければ応えてくれるけれど、向けなくても邪魔をしない音、つまり「無視することもできて、同時に面白くもある」音を挙げている。ゆっくりと重なり、ずれていく短い旋律が、終わりも盛り上がりもなく続いていく。
この考え方は、職場で流す音楽として先に広まっていたものとは、はっきり違っていた。1934年に始まったミューザックは、工場や事務所に音楽を配信する会社で、「刺激の段階づけ」と呼ばれる仕組みを売りにしていた。15分ごとの区切りの中で、だんだんテンポや明るさを上げていき、午前の終わりや午後の半ばに働く人の手が止まりがちな時間帯を持ち上げる、というものだ。科学的な根拠ははっきりしなかったが、音楽で人の働きぶりを操るという発想そのものが、多くの人に息苦しさを感じさせもした。イーノは、そうした「聴かせて動かす」音楽ではなく、聴く人がどう付き合うかを自分で選べる音楽を目指したのだと思う。
勉強する少女のループ配信が、毎日流れている

いま、イーノの考えにいちばん近い形で毎日聴かれている音楽は、動画配信サイトの中にあるのかもしれない。ヘッドホンをした少女が、窓辺の机でノートに何かを書き続けている。その横で猫が外を眺め、背景には少しかすれたヒップホップのビートが途切れずに流れている。2017年に始まったこのループ配信は、のちに少女のアニメーションが加わり、2021年からは「Lofi Girl」という名前で知られるようになった。少女の姿は、映画『耳をすませば』の主人公から着想を得たものだという。
2022年の夏、誤った著作権の申し立てによってこの配信が一時的に止められたとき、多くの人が戸惑いの声を上げた。それだけ、勉強や仕事の時間にこの音を流すことが、生活の一部になっていたということだ。ゆるいテンポ、歌のないトラック、わざと残されたレコードのノイズ。どれも、さきほどの心理学の話に照らすと、言葉を扱う作業の邪魔をしにくい条件を満たしている。作り手がそれを狙ったのかどうかは分からないが、聞き流されるための音として、とてもよくできていると思う。
画面の中の少女は、ただ黙って勉強を続けている。それを横目に見ながら自分も机に向かうと、図書館で隣の席の誰かが静かにページをめくっているときのような、ほどよい連帯感がある。音そのものより、この「誰かも同じように頑張っている」という気配が、背中を押してくれているのかもしれない。
作業の種類で、耳に渡すものを変える
ここまでの話をまとめると、作業中の音楽は、何を流すかよりも、どんな作業の隣に置くかで値打ちが決まる。私はいま、作業を大きく3つに分けて、音を使い分けるようにしている。
ひとつめは、文章を読む、書く、考えをまとめるといった、言葉を扱う時間だ。ここでは歌詞のある曲は流さない。音が欲しいときは、イーノのような環境音楽か、旋律の起伏が小さいピアノ曲を、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな音量で流す。静けさが苦手な日は、雨音や遠くのざわめきのような、変化の少ない音のほうが、音楽よりも邪魔にならないことが多い。
ふたつめは、画像の整理やデータの入力、片づけのような、手を動かす単純な時間だ。ここでは好きな曲を、歌ものも含めて遠慮なく流す。テンポの速い曲だと手の動きもつられて速くなり、退屈な作業が少し楽しくなる。単調な作業こそ、音楽がいちばん素直に力を貸してくれる場面だと思う。
みっつめは、作業に入る前の数分間だ。ここでは、気分が上がる明るい曲を1曲だけ、ちゃんと聴く。モーツァルト効果の正体が「気分と覚醒」だったのなら、それを作業の前に使えばいい。曲が終わったら、音を止めるか、さきほどの静かな音に切り替えて、仕事に入る。
レコードで聴いている日は、片面が終わるまでを、ひとつの区切りにすることもある。針が内側の溝に達してぷつぷつと鳴り始めたら、立ち上がってお茶を淹れ、盤を裏返す。音楽が作業の時間を測ってくれる砂時計のような役目を果たしてくれる。
耳は、私たちが聞いていないつもりの音まで、ずっと受け取り続けている。だからこそ、何を流すかを少しだけ意識して選ぶと、同じ1時間の手ざわりが変わってくる。今夜、机に向かう前に、再生ボタンを押す指をいったん止めて、これからやる作業に合う音はどれだろうと考えてみてほしい。その数秒の選び方が、思っている以上に、仕事の進み方を静かに支えてくれるはずだ。