夜、部屋の明かりを少し落として、渡辺貞夫の『California Shower』をかける。最初のアルトサックスの一音が鳴った瞬間、窓の外が少しだけ南の海辺に近づいたような気がする。明るく、軽く、それでいてどこか懐かしい。アメリカのジャズを聴いているはずなのに、この音には、子どものころに聴いた歌謡曲や、夏の夕方のラジオのような手ざわりがある。

日本のジャズは、戦後に海の向こうから届いたレコードを、耳で必死に写し取るところから始まった。最初はコピーだった音楽が、いつ、どこで、日本の演奏家それぞれの声になったのか。この記事では、1950年代から現在までの何人かの演奏家をたどりながら、その「自分のものにした瞬間」を、いまでも手に入る録音とつなげて見ていきたい。読み終えたあと、棚の奥の1枚や、配信の検索窓に打ち込む名前がひとつ増えていればうれしい。


ボストンへ渡った秋吉敏子と、最初の扉

1953年、グランドピアノに向かってこちらを振り返る若い秋吉敏子
1953年の秋吉敏子。この年、来日中のプロデューサー、ノーマン・グランツのもとで初めての録音を残したPhoto: 朝日新聞社 / Public domain

戦後まもない日本で、ジャズを生で演奏できる場所の多くは進駐軍のクラブだった。満州で生まれ、引き揚げてきたピアニストの秋吉敏子も、そうした場所で腕を磨いたひとりだ。1953年、来日公演中のオスカー・ピーターソンが彼女の演奏を耳にし、同行していたプロデューサーのノーマン・グランツに紹介した。こうして生まれた録音が、彼女の名前を海の向こうへ届けるきっかけになった。

1956年1月、秋吉はボストンのバークリー音楽院に入学する。日本人として初めての学生だった。当時のアメリカで、日本から来た若い女性のピアニストがビバップを弾くというのは、それだけで珍しがられることだったと思う。彼女はそこで、アメリカのジャズを正確に弾けることと、自分にしか弾けない音楽を持つことは別の問題だと、身をもって知ることになる。

その答えのひとつが、夫でサックス奏者のルー・タバキンと組んだビッグバンドの『孤軍(Kogun)』だ。1974年に録音されたこのアルバムでは、能楽の鼓の音がビッグバンドのサウンドと重ねられている。初めて聴いたとき、鼓の「ポン」という乾いた響きと、ホーンセクションの分厚い和音が同じ空間に並んでいることに、少し驚いた。異国の楽器を飾りとして借りてきたのではなく、ジャズの語法の中に自分の生まれた土地の時間の流れを持ち込んでいる。日本人がジャズを「自分のものにする」道筋を、最初にはっきり示したのは彼女だったと私は思っている。

渡辺貞夫が1965年に持ち帰ったもの

赤いシャツの子どもたちの打楽器隊と一緒に、野外ステージでアルトサックスを吹く渡辺貞夫
子どもたちの打楽器隊に囲まれてアルトサックスを吹く渡辺貞夫。リズムの輪の中で吹く姿に、この人の音楽の明るさがよく表れているPhoto: srgpicker / CC BY 2.0

渡辺貞夫は1933年に栃木県の宇都宮で生まれた。1962年にバークリーへ留学し、在学中から作編曲家のゲイリー・マクファーランドや、ドラマーのチコ・ハミルトンのバンドで演奏する機会を得ている。ニューヨークやボストンの現場で、彼は本場のビバップだけでなく、当時アメリカで流行していたボサノヴァの柔らかなリズムにも出会った。

1965年に帰国した渡辺は、演奏するだけでなく、ヤマハの音楽教室などで後進にジャズの理論や奏法を教えはじめる。耳で写し取るしかなかった音楽を、言葉と譜面で伝えられる形にしたことは、その後の日本のジャズにとって大きかった。アメリカで学んだものを独り占めにせず、次の世代へ渡したのだ。

彼の音楽がジャズファンの外にまで届いたのは、1970年代の終わりだった。デイヴ・グルーシンの編曲で録音された1978年の『California Shower』と、翌1979年の『Morning Island』は、ジャズの棚を越えて広く聴かれた。これらのアルバムを聴いていると、ビバップの技術を土台にしながら、メロディの歌わせ方がとても素直なことに気づく。難しいことをしているのに、口ずさめる。アフリカやブラジルの音楽にも惹かれ続けた渡辺の旅は、そのまま「明るいジャズ」という彼だけの声になった。

90歳を超えた今も、渡辺は舞台に立ち続けている。若いころの録音と最近の演奏を続けて聴くと、音色はずいぶん丸くなったのに、フレーズの最後でふっと笑うような歌い方は少しも変わっていない。60年以上同じ楽器と付き合ってきた人の音には、聴く側の背筋を自然と伸ばしてくれる力がある。

菊地雅章と日野皓正、ニューヨークに残った人たち

秋吉や渡辺の後に続いた世代には、日本に戻らず、ニューヨークに腰を据えて自分の音を探した人たちもいる。ピアニストの菊地雅章と、トランペット奏者の日野皓正だ。

日野は1969年の『Hi-Nology』で一躍注目を集め、1970年代半ばにニューヨークへ拠点を移した。菊地は1972年にギル・エヴァンスと共演し、同じころエルヴィン・ジョーンズのバンドにも加わっている。二人はニューヨークでも一緒に演奏し、アメリカのジャズの中心で、日本から来た演奏家としてではなく、ひとりの音楽家として評価されていった。

菊地の音楽は、年を重ねるほど静かになっていった。1981年の『Susto』ではシンセサイザーを大胆に使った反復のグルーヴに踏み込んだが、晩年は一音一音のあいだに長い沈黙を置く、きわめて内省的なピアノへ向かう。ベースのゲイリー・ピーコック、ドラムのポール・モチアンと組んだトリオ、テザード・ムーンや、2009年に録音されECMから2012年に出た『Sunrise』を聴くと、音と音のあいだの空白そのものが音楽になっていることに気づく。菊地は2015年にニューヨーク近郊で亡くなった。彼の遺した録音は、ジャズが「間」の音楽にもなりうることを、今も静かに教えてくれる。

山下洋輔トリオがメールスで鳴らした音

暗いステージでベスト姿のまま身をかがめてピアノを弾く山下洋輔の横顔
ピアノに覆いかぶさるように弾く山下洋輔。フリージャズのトリオで世界に出てから半世紀、今も現役で鍵盤に向かっているPhoto: Daniel Shen Taipei, Taiwan / CC BY-SA 2.0

1960年代の終わり、まったく別の方向から「日本のジャズ」をつくった人がいる。1942年生まれのピアニスト、山下洋輔だ。1969年に結成した山下洋輔トリオは、サックスの坂田明とドラムの森山威男を擁し、拍子も和音の約束事も振り切って突き進むフリージャズを演奏した。

アメリカのフリージャズを手本にしながら、彼らの演奏にはどこか祭りのような熱さがある。ピアノを肘や拳で叩きつけるような山下の奏法も、坂田の叫ぶようなサックスも、森山の嵐のようなドラムも、計算された前衛というより、体の奥から湧いてくる衝動に近い。その音は、1974年に始まったヨーロッパ・ツアーで大きな反響を呼んだ。同じ年、ドイツのメールス・ジャズ祭でのライヴは『Clay』としてレコードになり、日本のフリージャズの代表作として今も聴き継がれている。

『Clay』をかけると、最初の数分で部屋の空気が一変する。音量を上げすぎると近所が心配になるが、少し大きめの音で浴びると、体の中で何かがほどけるような感覚がある。整った音楽ばかり聴いて疲れた夜に、こういう録音は意外なほど気持ちを軽くしてくれる。80歳を過ぎた山下は今も演奏を続け、坂田明も現役のサックス奏者として活動している。

ジャズ喫茶とThree Blind Mice、聴き手が育てた音

日本のジャズの歴史を語るとき、演奏家と同じくらい大事なのが聴き手の存在だ。1961年のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの来日公演をきっかけにジャズブームが起こり、各地にジャズ喫茶が生まれた。1970年代の最盛期には全国で数百軒を数え、東京だけでも250軒を超えていたといわれる。高価な輸入盤を個人で何枚も買えなかった時代、若者たちは1杯のコーヒーで何時間も大きなスピーカーの前に座り、黙って新譜に耳を澄ませた。

そうして耳の肥えた聴き手が育ったことが、日本独自のレーベルを生む土壌にもなった。1970年6月にプロデューサーの藤井武が立ち上げたThree Blind Mice、通称TBMはその代表だ。録音技師の神成芳彦とともに、日本のジャズ演奏家を鮮やかで生々しい音で記録することにこだわった。1974年3月に録音されたピアニスト山本剛の『Midnight Sugar』は、ブルースを丁寧に歌わせるピアノと、楽器のすぐそばにいるような音の近さで、今もオーディオ好きのあいだで定番になっている。

輸入盤を聴く側だった日本が、自分たちの演奏を自分たちの音で録るようになった。TBMの盤を聴いていると、演奏家だけでなく、録る人と聴く人を含めた「日本のジャズの場」ができあがっていった時代の空気が伝わってくる。

上原ひろみと『BLUE GIANT』、2000年代以降の声

グランドピアノの脇で髪をなびかせて笑顔を見せる上原ひろみ
ワルシャワの野外ジャズ祭で、演奏の合間に笑顔を見せる上原ひろみ。弾き始めると一転して激しい打鍵で会場を圧倒するPhoto: Robert Drózd / CC BY-SA 3.0

秋吉敏子が初めての日本人学生としてバークリーの門をくぐってから半世紀近くたって、同じ学校から世界へ飛び出したのが、1979年生まれのピアニスト上原ひろみだ。在学中にピアニストのアーマッド・ジャマルに見いだされ、2003年にアメリカのテラークから『Another Mind』でデビューした。ジャマルはこのアルバムの制作にも関わっている。

上原の演奏には、クラシックの技巧、ロックの爆発力、ジャズの即興が、境目なく混ざり合っている。ベースのアンソニー・ジャクソン、ドラムのサイモン・フィリップスと組んだトリオ・プロジェクトでは、変拍子の嵐の中を三人が全速力で駆け抜ける。もはや「日本人が演奏するジャズ」という枠で語る必要はなく、上原ひろみという一人の音楽家の音として世界で聴かれている。

彼女の音楽が新しい世代に届いた出来事として、2023年2月に公開されたアニメ映画『BLUE GIANT』も挙げておきたい。石塚真一が2013年から描いてきた、サックスに打ち込む青年の物語の映画化で、上原は音楽を担当した。劇中のサックスは1992年生まれの馬場智章、ドラムは同じく1992年生まれの石若駿が演奏し、映画は日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を受けている。上原と、30歳前後の若い演奏家たちが同じ録音に並んでいることは、秋吉や渡辺から続いてきた流れが今も途切れていない証拠のように感じる。

海の向こうが見つけ直した、1970年代の日本のジャズ

おもしろいのは、ここ10年ほどで、日本のジャズの古い録音が海外で新しく聴かれはじめていることだ。イギリスのBBEミュージックが出している「J Jazz」のシリーズは、1960年代末から80年代にかけて日本で録音された、国内でも知る人の少なかったモダンジャズを集めたコンピレーションで、何巻も続いている。フランスのWewantsoundsのように、日本の名盤を丁寧に復刻する海外レーベルも増えた。TBMの録音も、あらためてアナログ盤やハイレゾで出し直されている。

かつて日本の若者が、海の向こうのレコードを夢中で聴いていた。半世紀たって、今度は海の向こうの若者が、日本で録られたレコードを探し回っている。シティポップの再評価と並ぶ流れとして語られることも多いが、私はそれ以上に、「コピーから始まった音楽が、いつのまにか誰かの手本になった」という事実に胸を打たれる。

いま聴くなら、この5枚を年代順に

最後に、この記事でたどった流れを自分の耳で確かめるための5枚を挙げておく。古い順にかけていくと、日本のジャズが少しずつ自分の声を見つけていく過程が、物語のように聴こえてくると思う。

  • 山下洋輔トリオ『Clay』(1974年): メールスでの熱演。日本のフリージャズの衝動をまるごと浴びる1枚
  • 秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンド『孤軍』(1974年): 鼓とビッグバンドが並ぶ、和と洋がぶつかり合わずに溶ける瞬間
  • 山本剛『Midnight Sugar』(1974年): TBMの音の近さと、ブルースを歌わせるピアノ
  • 渡辺貞夫『California Shower』(1978年): 難しいことを口ずさめる形で鳴らす、明るいジャズの到達点
  • 上原ひろみ『Another Mind』(2003年): バークリーから世界へ。ジャンルの境目が消えた後の音

1974年の3枚を続けて聴くと、同じ年の日本で、フリージャズとビッグバンドとピアノトリオがまったく違う方向を向いていたことに驚くはずだ。そこへ1978年の渡辺の明るさと、2003年の上原の疾走感を重ねると、60年の流れが一晩でつながる。

輸入された音楽を自分のものにするには、たぶん長い時間がかかる。それでも、その時間をかけた人たちの音には、最初から誰かのものだった音楽にはない、手探りの温かさが残っている。今夜1枚選ぶなら、その温かさにいちばん素直に触れられる『California Shower』から始めてみてほしい。窓の外の景色が、少しだけ明るく見えるはずだ。


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