
ビバップが最高潮に達したあとに現れたのが、クール・ジャズだ。音が一段引く。テンポは落ち、フレーズの端には空間が残り、サックスとトランペットを同じ帯域で押し合うのではなく、上下に分かれた。これは疲れた音楽ではない。ビバップの複雑さを残したまま、配置を組み替えた音楽――それがクール・ジャズである。
1950年代のジャズ史は、この冷えた音がどこで生まれ、どこへ波及したのかという物語として読むと整理しやすい。その発生地は1949年のニューヨーク。中心になったのは、22歳の Miles Davis だった。そして同じ時代に、もうひとつ別の線が、カリフォルニアで静かに開いている。
一九四七年の地下から
物語の起点は1947年にある。アレンジャー Gil Evans は、マディソン・アベニューから少し西へいった55番街、中国ランドリーの一階にある小さなアパートを賃っていた。Miles と Gil はこの部屋で、秋から冬にかけて曲を書いた。
Miles Davis はこの年にすでに24歳で、Charlie Parker Quintet の一員として、1945年から Bird と戦っていた当時随一の若手だった。やがて彼は自分の名前でバンドをつくるという決断をする。ただしMingusのように自分の名を冠するバンドではない。曲を書く者と、編成を整える者が、同じステージに立つ。音楽のつくり方が、ここから変わる。
1947年8月14日、Miles と Parker の quintet は8曲を録音した。ただしこれは『Birth of the Cool』の原型ではない。
1949年1月21日。正式な始まりはニューヨークの WOR Studio。Miles Davis Nonet と銘打たれた九人編成が最初のセッションを持つ。メンバーは Miles Davis(トランペット)、Lee Konitz(アルトサックス)、Gerry Mulligan(バリトンサックス)、John Lewis(ピアノ)、Nelson Boyd(ベース)、J.J. Johnson(トロンボーン)、Sandy Siegelstein(フランスホルン)、Bill Barber(チューバ)、そして Max Roach または Kenny Clarke(ドラム)。
サックスが減り、金管が増えた。 その楽器編成の設計が、この音楽のすべてを規定した。ビバップがサックスとリズムセクションだけで構成されていたのに対し、Nonet は立ち上がりの瞬間に全ての声部を鳴らした。音と音のあいだに、生まれたばかりの余白が残る。この余白を成立させたのが、クール・ジャズである。
クロード・ソーの器
九人編成の考えは、Miles が唐突に思い出したものではない。クロード・ソー(Claude Thornhill)のオーケストラから受け継いだものだった。Thornhill は Miles より年上で、Miles がシカゴにいた頃、その音楽から強い影響を受けている。Thornhill のオーケストラは、オーボエやフランスホルン、バリトンサックス、ベースクラリネットなど、柔らかい音色の管楽器を並べていた。1940年代のビッグバンドの中でも、異質な組み合わせだった。
Miles の狙いは、この柔らかい音色のオーケストラを、小さい編成で再現することだった。Thornhill のオーケストラには、あとから Nonet の中心となる演奏者たちが集まることになる。
オーケストラの柔らかな音色を、小さい人数で出す。Thornhill のバンドから Mulligan と John Lewis がそのまま Nonet へ移ったことも、この思路がつながっていたことを示している。
ロイヤル・ルースト、1948年
1948年9月、Miles Davis Nonet はニューヨークの Royal Roost クラブで演奏を始めた。約二週間、Count Basie のバンドと連演した。
Columbia の John Hammond は、この時期の Miles の演奏に目を留めた。
三つのセッション、一枚のLP
録音は三回行われた。1949年1月21日はニューヨークの WOR Studio、1949年4月22日はロサンゼルの Capitol Studio、1950年3月9日も同じ Capitol Studio。合わせて十一曲だった。
ここで一つ、肝心な事実がある。1950年の時点で、この音楽を「クール・ジャズ」とは呼んでいた人はいなかった。Nonet の解散後、1957年に Capitol Records が十一曲を『Birth of the Cool』の題名で一枚の LP にまとめた。編者は Gil Evans だった。「クール・ジャズ」という言葉が定着したのは、録音時ではなく、1957年の発売以後だった。
終止符、1951年
1951年10月、Miles はある事件で逮捕され、短く留置された。釈放後すぐに精神的に崩れ、ニューヨークの病院に入院した。入院は半年から一年近く続いた。
Nonet には戻れなかった。1950年3月のセッションが、Nonet としての最後の録音になる。同じ時期、Mulligan も睡眠薬の常用で入院した。
ニューヨークのシーン自体が変わっていた。麻薬取締りによって、Parker を含む多くの演奏者たちが姿を消した。Nonet の音色は、いったんその表舞台から消えた。
西海岸、Chet Baker
同じ時期、西海岸では、別の形で冷えた音が生まれようとしていた。
ロサンゼルのシーンは、ニューヨークとは性格が違っていた。小さなグループが主役に据えられ、アコースティックな楽器の響きが尊重された。
1951年、Chet Baker は21歳でロサンゼルへ移った。
1952年5月29日、Charlie Parker がロサンゼルの Tiffany Club で演奏した。Baker もトランペットで加わった。この一夜が、二人の唯一の共演録音になる。
その年、Baker は Gerry Mulligan と組んだ。中心になったのは、Miles ではなく、Mulligan のバリトンサックスだった。
1953年、二人はそれぞれの道に分かれた。
1954年、Baker は Pacific Jazz から単独名義の初LPを発表した。タイトルは『Chet Baker Sings』で、収録曲の主役は「My Funny Valentine」だった。
二つの冷えた音
ニューヨークの『Birth of the Cool』は、Thornhill のオーケストラの声を小さく再現した音だった。ロサンゼルの Baker の音は、旋律よりも休符に由来していた。弱音のトランペットが、音符と音符のあいだを埋めていった。

cool jazz は長い間、软弱で退屈という偏見にさらされていた。
今日、『Birth of the Cool』を聞き直すと、音の余白の大きさに驚いてしまう。あの余白こそが、Nonet という考えの成果だった。
同じ時期、Baker は別の言語で同じことをやった。1950年代のジャズを「演奏する」だけでなく「描く」仕事として捉えていた。
この10年の前半に、重要な出来事が起きている。ミントンの日曜の jam session から 52nd Street の夜へ散った、時間の流れ。あの側の物語は Charlie ParkerとDizzy Gillespie、ビバップが生まれた1940年代ニューヨークの5年間 に置いてある。
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