ヒッチコック『めまい』のドリーズーム、引きながら寄るカメラが鐘楼の吹き抜けを伸ばした

階段を何段か駆け上がった男が、手すりの間から下をのぞき込む。その瞬間、吹き抜けの底がすっと遠ざかり、四角い螺旋がぐにゃりと伸びる。けれど、画面の枠に見えている手すりの位置は、ほとんど変わらない。アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(1958)で、元刑事のスコティが鐘楼の階段を上る場面である。 この数秒の映像は、のちに「ドリーズーム」と呼ばれる撮影技法の出発点になった。カメラ全体を後ろへ引きながら、同時にズームレンズで前へ寄る。言葉にすると単純だが、画面に起きることは単純ではない。中心にあるものの大きさは保たれたまま、その奥の空間だけが伸びたり縮んだりする。見ている側は、何が起きたのか理解する前に、胃のあたりがふわっと浮くような感覚を味わうことになる。 この記事では、ヒッチコックがこの感覚をどこから思いつき、どうやって映像にしたのか、そしてなぜカメラを引きながら寄ると床が伸びて見えるのかを、レンズと遠近感の仕組みから順に見ていく。一度仕組みが分かると、映画を見る目が少し変わる。画面の奥行きそのものが、登場人物の心の揺れを語り始めるのが見えてくるからだ。 1958年のサンフランシスコと、高所恐怖症の元刑事 ソール・バスがデザインした『めまい』のポスター。渦の中を落ちていく人影が、物語の芯をそのまま絵にしているPhoto: Saul Bass / Public domain 『めまい』は1958年5月にサンフランシスコで封切られた。原作はフランスの作家コンビ、ピエール・ボワローとトマ・ナルスジャックが1954年に書いた小説『死者の中から』である。主演はジェームズ・スチュアート。屋根の上で犯人を追う途中、足を滑らせて同僚を死なせてしまい、そのときから高所恐怖症に苦しむ元刑事スコティを演じている。 刑事を辞めたスコティは、旧友から妻マデリンの尾行を頼まれる。キム・ノヴァクが演じるマデリンは、亡くなった曾祖母の霊に取りつかれたように、街の美術館や墓地、古い伝道所をさまよう。スコティは彼女を見張るうちに惹かれていき、やがて郊外の伝道所の鐘楼へ駆け上がる彼女を追うことになる。ところが高所恐怖症の彼は、途中の階段から先へ進めない。ドリーズームが使われるのは、まさにこの「上へ行きたいのに、下を見た途端に体が固まる」瞬間だ。 音楽はバーナード・ハーマン。うねるように上下する弦の旋律は、恋と執着がほどけずに絡まっていく物語によく合っている。冒頭のタイトルは、ポスターも手がけたソール・バスがデザインした。女性の目の中から螺旋の図形が次々に湧き出てくる映像で、その渦巻き模様の動きは、アニメーション作家のジョン・ホイットニーが機械仕掛けの装置で描き出したものだ。オープニングの時点で、この映画はすでに観客の目を回しにかかっている。 公開当時の評価は、賛否が分かれる程度のものだった。それが数十年かけて少しずつ評価を上げ、イギリスの映画雑誌『サイト・アンド・サウンド』が10年ごとに行っている批評家投票で、2012年についに1位になった。半世紀にわたって首位を守ってきた『市民ケーン』を抜いた形である。2022年の投票では2位だったが、映画史の頂点の一つであることは今も変わらない。 酔った夜の感覚を、長い年月をかけて映像にした 撮影の合間にキム・ノヴァクへ指示を出すヒッチコック。宣伝用に撮られた現場写真Photo: Paramount Pictures / Public domain ヒッチコックは、このショットのもとになった感覚を、フランソワ・トリュフォーとの長いインタビューの中で語っている。若いころ、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれたチェルシー・アーツ・クラブの舞踏会でひどく酔ってしまい、周りのものが自分からどんどん遠ざかっていくように感じた。その感覚をいつか映画で見せたいと考え、1940年の『レベッカ』で試そうとしたが、当時はどうしても実現できなかった、という話である。 つまりこの数秒は、思いついてから形になるまでに、少なくとも十数年を待ったことになる。私はこの話がとても好きだ。名監督の代名詞のような技法が、体系的な理論からではなく、酔って足元がおぼつかなくなった夜の、言葉にしづらい体の感覚から出発している。その感覚を忘れずに持ち続け、技術が追いつくのを待っていたところに、ヒッチコックという人の執念が見える。 解決策を見つけたのは、パラマウントの第2班でカメラマンを務めていたアーミン・ロバーツだった。カメラを載せた台車(ドリー)を後ろへ引きながら、ズームレンズの焦点距離を伸ばして前へ寄る。二つの動きを、画面の中心にあるものの大きさが変わらないよう、速さを合わせて同時に行う。今ならモーター制御のリグや、スマートフォンのアプリでも似たことができるが、1950年代には人の手と目で動きを合わせるしかなかった。ロバーツの名前は映画のクレジットには大きく出ていない。それでも今日、この技法の考案者として必ず名前が挙がる。 もう一つの問題は、鐘楼の吹き抜けを真上から見下ろす構図だった。本物の高さの階段の上にカメラと台車を吊って、引きながら寄る動きをさせるのは大がかりすぎる。そこで撮影班は、階段の吹き抜けの模型を作り、それを横に倒して床に置いた。こうすれば、カメラは地面の上を水平に動くだけで、高い場所から真下をのぞき込む映像が撮れる。費用はおよそ1万9千ドル。当初は5万ドルほどかかると見積もられていたものを、この工夫で半分以下に抑えたと伝えられている。わずか数秒のために、当時としては決して小さくない金額をかけたことになる。 引きながら寄ると、なぜ床が伸びて見えるのか サン・フアン・バウティスタ伝道所の聖堂内部。『めまい』の後半の舞台になった。奥へ向かう線が、遠近感の手がかりになるPhoto: Ligocsicnarf89 / CC BY 4.0 ここからは、画面の中で何が起きているのかを考えてみる。鍵になるのは、「遠近感を決めているのはレンズではなく、カメラの位置だ」という点である。 ズームレンズで焦点距離を変えると、写る範囲(画角)が広がったり狭まったりする。けれど、カメラが同じ場所にある限り、手前のものと奥のものの大きさの比は変わらない。望遠側に回しても、広角で撮った写真の真ん中を切り抜いて拡大したのと同じ絵になるだけだ。一方、カメラそのものを前後に動かすと、手前のものと奥のものの大きさの比が変わる。近くのものは、少し近づいただけで大きく見え方が変わるが、遠くのものはほとんど変わらないからである。 数字で考えると分かりやすい。カメラから2メートル先に人が立ち、さらにその10メートル奥に壁があるとする。焦点距離50ミリで撮ると、人までは2メートル、壁までは12メートル。ここからカメラを2メートル後ろへ下げ、焦点距離を100ミリに伸ばしたとする。人までの距離は4メートルと2倍になったが、焦点距離も2倍なので、人は画面の中で同じ大きさに写る。ところが壁までの距離は12メートルから14メートルへ、わずか1.17倍しか増えていない。そこへ焦点距離が2倍になるので、壁は画面の中でおよそ1.7倍に大きくなる。人は動かないのに、背後の壁だけがぐっと迫ってくる。 逆に、カメラを前へ出しながら広角側へ引けば、人の大きさは同じまま、奥の壁が遠ざかり、空間が奥へ引き伸ばされる。どちらの向きでも、画面の中心にあるものの大きさは保たれ、その周りの奥行きの比率だけが滑らかに書き換えられていく。 ふだん私たちの目は、ものが大きく見えるか小さく見えるかで、自分が近づいたのか離れたのかを判断している。ドリーズームはその手がかりを壊す。中心の人物や手すりは「動いていない」と告げているのに、周りの空間は「動いている」と告げる。二つの情報が食い違うと、脳は自分の体が揺れているのか、世界が揺れているのか決めかねる。その落ち着かなさこそが、目眩に近い感覚の正体だと私は考えている。『めまい』の鐘楼の場面では、吹き抜けの四角い螺旋が奥行きの手がかりをたっぷり持っているので、その書き換えがいっそう強く効く。 ちなみに、写真の伝道所は現在も残っていて、映画の後半の舞台になった場所だ。ただし撮影当時の建物には、劇中のような高い鐘楼は無かった。外から見た塔は、伝道所の映像に絵を重ねる合成で作られ、中の階段はスタジオに組んだセットで撮られている。観客が恐ろしさを覚えたあの高さは、はじめから映画の中にしか存在しなかったことになる。 恐怖を伝える「型」として受け継がれる 『めまい』の宣伝用スチル。キム・ノヴァクとジェームズ・スチュアートPhoto: Paramount Pictures / Public domain 『めまい』のあと、ドリーズームは「登場人物の心がぐらりと揺れた瞬間」を見せるための定番の技法になっていった。いちばん有名なのは、スティーヴン・スピルバーグの『ジョーズ』(1975)だろう。浜辺の椅子に座った署長ブロディが、海で鮫が人を襲うのを目にした瞬間、顔の大きさはそのままに、背後の浜辺と海だけがぐっと動く。周りの人々の楽しげなざわめきから、彼ひとりが切り離される感覚が、数秒で伝わってくる。 マーティン・スコセッシの『グッドフェローズ』(1990)では、終盤の食堂の場面で使われている。窓際の席で向かい合って話す二人の男の後ろで、外の街並みがじわじわと寄ってくる。話の内容は穏やかなのに、主人公が追い詰められていく気配が画面の奥から忍び寄る。同じ技法なのに、ブロディの場面のような一瞬の衝撃ではなく、ゆっくりと締めつける不安を描いているのが面白い。 ほかにも、廊下の先のドアがどこまでも遠ざかっていく『ポルターガイスト』(1982)、パリ郊外の若者たちを描いた『憎しみ』(1995)、ヌーの大群が谷へなだれ込むのを見上げる子ライオンを描いた『ライオン・キング』(1994)、そして森の道で何かの気配を感じたホビットのフロドが仲間に「道から離れろ」と叫ぶ『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)など、数えきれないほどの作品にこの技法は登場する。料理評論家が一口食べて子ども時代に引き戻される『レミーのおいしいレストラン』(2007)のように、恐怖ではなく、心が過去へ吸い込まれる感覚を表した例もある。 使われる場面を並べてみると、共通点が見えてくる。どれも、人物が「何かに気づいた」瞬間、あるいは自分の足元が揺らいだ瞬間だ。説明のせりふを入れなくても、観客は画面の奥行きが変わったことで、その人物の内側で何かが崩れたことを体で受け取る。ヒッチコックが酔った夜に感じた個人的な感覚は、70年近くたった今も、映画の共通語として生きている。 『めまい』をもう一度見るときに 最後に、この映画をあらためて見るときの楽しみ方を書いておきたい。 まずは、鐘楼の場面を待ちながら、全体を通して見てほしい。ドリーズームのショットそのものは数秒しかない。けれど、そこへ至るまでに、屋根の上の追跡、坂の多いサンフランシスコの街並み、美術館の肖像画、墓地、海辺と、スコティの心が少しずつ傾いていく積み重ねがある。その積み重ねがあるからこそ、吹き抜けが伸びた瞬間、観客は彼の恐怖を自分のものとして感じてしまう。 2回目は、画面の奥行きに注目して見ると面白い。ヒッチコックはドリーズーム以外の場面でも、手前と奥の距離をとても意識して画面を組んでいる。尾行の場面で車の窓越しに見える遠い人影、伝道所の長い回廊、らせん階段の上と下。奥行きの扱いに目を慣らしておくと、あの数秒がどれだけ周到に準備された一撃だったかがよく分かる。 そして物語の終盤、スコティがもう一度鐘楼の階段を上るとき、あの吹き抜けが彼にどう見えるのかを、ぜひ自分の目で確かめてほしい。高さへの恐怖と、ある人への執着が、同じ階段の上で重なる。その場面に立ち会ったとき、ドリーズームは単なる撮影の工夫ではなく、一人の人間が抱えた目眩そのものを観客に手渡すための方法だったのだと、きっと実感できるはずだ。 関連記事・おすすめメディア 【本陣】GitHub Pages で全ての専門記事・深掘りデータベースを読む 5拍子のピアノが30万ドルの映画を救った。ジョン・カーペンター『ハロウィン』(1978)のテーマ曲 「Tank!」から佐世保の喫茶店まで、アニメーションとジャズが出会う場所 はてなブログ版(最新コラム)はこちら Amebaブログ版(ドリンク・酒の科学とレシピ)はこちら

2026年11月5日 · 1 分 · 62 文字 · kingsworksub-jpg