備前焼のぐい呑みに釉薬がない理由と、酒がまろやかになると言われる仕組み

備前焼のぐい呑みを手に取ると、まず色の幅に驚く。赤みの強い茶色、黄色い粒が散った焦げ茶、灰色がかった黒、白地に赤い線が走ったもの。どれも絵付けはされておらず、釉薬(ゆうやく、器の表面を覆うガラス質の膜)も掛かっていない。それでも一つとして同じ見た目のものがない。そしてこの器には、昔から「酒やビールがまろやかになる」という言い伝えがついて回る。 この記事では、まず備前焼のぐい呑みの基本を数字で並べ、そのあと土と窯の仕組み、窯変(ようへん)と呼ばれる景色ができる理由をたどる。後半では、酒の角が取れると言われる理由について、説明がつく部分と言い伝えにとどまる部分を分けて整理し、燗の温度や注ぐ量、使いはじめの水通しと毎日の手入れまでをまとめる。 先に結論、備前焼のぐい呑みを数字で見る 備前市の備前焼伝統産業会館で出された一杯。カップは赤みの強い焼き色、受け皿は灰が溶けた黄土色で、同じ土でも焼け方で色が分かれるPhoto: 663highland / CC BY 2.5 備前焼は、岡山県備前市の伊部(いんべ)地区を中心に焼かれている焼き物だ。最大の特徴は、釉薬も絵付けも使わず、土をそのまま高温で焼き締める「焼締め(やきしめ)」で仕上げることにある。器の色や模様は、土に含まれる鉄分と、窯の中で降りかかる薪の灰、炎の当たり方だけで決まる。1982年には国の伝統的工芸品に指定され、2017年には「日本六古窯」の一つとして日本遺産にも認定された。 焼き方の数字を並べると、この器がどれだけ手間のかかるものかが見えてくる。窯の温度は最高で1,200〜1,300℃に達し、一度の窯焚きは10日から2週間ほど続く。そのあいだ赤松の薪をくべ続けるため、窯を焚くのは多くの窯元で年に1〜2回しかない。いま稼働している窯はおよそ300ほどとされ、作家や窯元ごとに土の配合や窯の詰め方が違う。 項目 備前焼の数字・特徴 産地 岡山県備前市伊部(JR伊部駅、岡山駅から約40分) 原料の土 田んぼの下から掘る「ひよせ」など、鉄分の多い粘土 釉薬・絵付け どちらも使わない(焼締め) 燃料 赤松の薪 最高温度 約1,200〜1,300℃ 1回の窯焚き 約10〜14日(年1〜2回が多い) 主な窯変 胡麻・緋襷・牡丹餅・桟切り・青備前 公的な指定 伝統的工芸品(1982年)、日本遺産(2017年、六古窯) ぐい呑みの容量 50〜80ml前後が多い(目安) 価格は、窯元の量産品なら数千円台から、名の知られた作家の作品になると数万円以上と幅が広い。同じ大きさでも、窯変の出方や作家によって値段がまったく変わるのが備前焼の特徴で、ここは「これが相場」と一つの数字で言い切れない。 須恵器から六古窯へ、備前焼の歩み 東京国立博物館に収められた江戸時代、1600年代の備前焼の鉢。丸い赤茶の跡は、上に小さな器を重ねて焼いたときにできる「牡丹餅」Photo: Daderot / CC0 備前焼の祖先は、古墳時代に朝鮮半島から伝わった須恵器(すえき)だ。ろくろと、山の斜面を掘って作る穴窯(あながま)の技術とともに広まった灰色の硬い焼き物で、備前の地でも盛んに焼かれていた。平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、焼き物づくりの中心が伊部へ移るにつれ、須恵器の灰色から、鉄分の多い土を酸化させて焼く赤褐色の肌へと変わっていった。これが、いまの備前焼につながる姿の始まりとされる。 室町時代には、壺や甕(かめ)、すり鉢といった実用の器が西日本の各地へ運ばれた。硬く焼き締まって割れにくく、水や穀物をためるのに向いていたからだ。桃山時代になると、茶の湯の広まりとともに、飾らない土の肌が「わび」の美しさとして見直され、花入や水指などの茶道具が数多く作られた。 江戸時代に入ると、白く薄い磁器が全国に広まり、備前焼はしだいに押されていく。それを昭和に入って立て直したのが金重陶陽(かねしげ とうよう)だ。桃山時代の作風を研究して復興させ、1956年に備前焼で初めて重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定された。その後も1970年に藤原啓、1987年に山本陶秀、1996年に藤原雄、2004年に伊勢崎淳が認定されている。なかでも藤原啓は、もとは文学の道を歩み、酒器を好んで手がけた作家として知られている。 田んぼの下の土「ひよせ」と、釉薬を掛けない理由 備前焼の徳利。全体に散る黄色い粒が灰の溶けた「胡麻」、灰が当たらなかったところだけが赤茶色の土の色で残っているPhoto: SK10DPB / CC BY-SA 4.0 備前焼の性格を決めているのは、まず土だ。伊部周辺では、田んぼの下の地層から掘り出す「ひよせ」と呼ばれる粘土が使われてきた。ひよせは粒がきめ細かく、粘り気が強いので、ろくろで薄く挽いたり、細かい形を作ったりしやすい。そして鉄分を多く含んでいるため、焼くと赤みのある茶色に発色する。掘り出した土はすぐには使わず、何年も寝かせて雨風にさらし、不純物を抜きながら粘りを育てる窯元が多い。 一方で、ひよせには弱点もある。耐火度が低い、つまり高い温度に長くさらされると形が崩れやすく、焼いたときの縮みも大きい。釉薬を掛けて一気に高温で焼く磁器のようなやり方には向かない土なのだ。そこで備前焼は、釉薬を使わず、温度を時間をかけてゆっくり上げ、土を芯まで焼き締める方法を選んできた。釉薬を掛けないのは、素朴さを狙った演出ではなく、この土の性質に合わせた結果だと言える。 焼き締めた備前焼は、土鍋や素焼きの植木鉢のように水をぐんぐん吸い込むことはない。高温で粒どうしが溶け合い、硬く締まっているからだ。それでも表面には、釉薬の膜がない分だけ、細かな凹凸がそのまま残る。指でなでると、磁器のつるりとした手触りとは違う、わずかなざらつきとしっとりした感触がある。この表面こそが、後で触れる「まろやかになる」という話の出発点になっている。 赤松の薪で10日以上、窯の中の火の番 備前市伊部に残る南大窯跡。室町時代の終わりから江戸時代にかけて、窯元が共同で使った細長い大窯が斜面に沿って築かれていたPhoto: 663highland / CC BY 2.5 備前焼の窯には、斜面を利用した穴窯と、いくつもの部屋を階段状につないだ登り窯がある。どちらも燃料は赤松の薪で、窯焚きが始まると、職人が交代で昼も夜も火の番をする。薪をくべるのはおよそ20分おきで、急に温度を上げると器が割れてしまうため、数日かけて少しずつ温度を上げていく。最高温度の1,200〜1,300℃に達したあともしばらく焚き続け、全体で10日から2週間ほどかかる。 ...

2026年11月6日 · 1 分 · 99 文字 · kingsworksub-jpg

信楽焼のぐい呑みは、なぜ土のざらつきを残したまま焼かれるのか

ぐい呑みを選ぶとき、有田や九谷の磁器は、白い肌のなめらかさや絵付けの華やかさで目を引く。縁は薄く、口に当てるとすっと冷たく、酒の色もよく見える。信楽焼のぐい呑みは、その反対の方向にある器だと思う。表面はざらりとしていて、ところどころに白い粒が顔を出し、赤みを帯びた焦げたような色がにじんでいる。指でなでると、土そのものに触れている感触がある。 最初は、このざらつきが口当たりの邪魔になるのではないかと心配になる。けれど、ぬる燗を注いで唇を当ててみると、硬い磁器の縁とはまったく違う、乾いた土のやわらかい当たりが返ってくる。この記事では、信楽焼がどんな土から生まれ、窯の中でどうやって火色やビードロと呼ばれる景色をまとうのかを見ていき、そのうえで、ぐい呑みとして酒を受けたときに何が変わるのか、どう手入れして育てていくのかを書いていく。 紫香楽宮の瓦から六古窯へ、信楽焼の歩み 室町時代15世紀の信楽焼の小壺。肩に檜垣文を刻み、窯の中で降りかかった灰が自然釉になっているPhoto: Daderot / Public domain 信楽は滋賀県の南の端、三重県や京都府との境に近い山あいの町だ。2004年に周辺の町と合併して甲賀市の一部になったが、焼き物の名前としては今も「信楽」がそのまま使われている。山に囲まれた盆地で、焼き物に向いた土と、窯を焚くための薪になる木が、どちらも手の届く場所にあった。 信楽の焼き物の始まりとしてよく語られるのが、奈良時代の742年、聖武天皇がこの地に紫香楽宮(しがらきのみや)を造営したときの話だ。宮殿の屋根に使う瓦をこのあたりで焼いたことが、信楽で焼き物が作られるきっかけになったと伝えられている。ただ、窯の跡として確かめられているのはもう少し後の時代で、鎌倉時代の中ごろ、13世紀には壺や甕、すり鉢を焼く窯が動いていたと考えられている。 鎌倉から室町にかけての信楽焼は、もっぱら暮らしの道具だった。穀物や種を蓄える大きな壺、水を溜める甕、台所で使うすり鉢。釉薬を掛けずに高温で焼き締めた器は丈夫で水を通しにくく、農家の土間に置いておくにはうってつけだった。写真の小壺のように、肩のあたりに檜垣(ひがき)と呼ばれる斜め格子の線を刻んだものも多く、これが信楽の古い壺の目印の一つになっている。 この素朴な壺が、室町時代の後半に思いがけない場所で評価されることになる。茶の湯の世界だ。武野紹鷗(たけのじょうおう)や千利休といった茶人たちは、中国から渡ってきた豪華な道具ではなく、身の回りにある飾り気のない器に美しさを見いだした。信楽の壺は水指や花入に見立てられ、やがて茶の湯のために作られた信楽焼も生まれていく。江戸時代には、宇治の茶を詰めて運ぶ茶壺の産地としても名前が広まった。 信楽は、瀬戸・常滑・越前・丹波・備前とあわせて「日本六古窯」と呼ばれる、中世から今まで焼き物を作り続けてきた産地の一つでもある。六古窯は2017年に日本遺産に認定された。明治から昭和にかけては火鉢の大産地となり、戦後は狸の置物で全国に知られるようになった。1951年に昭和天皇が信楽を訪れた際、日の丸の小旗を持った狸の置物が沿道に並べられたという話は、町の人がいまも好んで語るエピソードだ。 古琵琶湖の底の土と、長石の白い粒 信楽焼の個性は、まず土から来ている。信楽の周辺には、数百万年前にこの一帯にあった古い琵琶湖の湖底にたまった地層、古琵琶湖層が広がっている。琵琶湖は長い時間をかけて少しずつ北へ移動し、いまの位置に落ち着いたとされていて、その移動の途中に残していった湖底の粘土が、信楽の焼き物の原料になっている。 この土は、粘り気があって形を作りやすく、しかも火に強い。高い温度で長い時間焼いてもへたりにくいので、大きな壺や甕を焼くのに向いていた。いまの信楽で大物の焼き物が得意とされるのも、この土の性質によるところが大きい。 もう一つの特徴が、土の中に混じっている粗い粒だ。信楽の土には、花崗岩が風化してできた長石や石英の粒がたくさん含まれている。普通の陶土なら、こうした粒は水簸(すいひ)という工程で取り除いて、きめの細かい土に整えることが多い。信楽焼では、この粒をあえて残す。そのため、焼き上がった器の表面には、ざらざらとした手触りと、ところどころに白く光る点が残る。 火色、ビードロ、石はぜ、窯の中で生まれる景色 江戸時代の信楽焼の茶碗。右下に向かって赤みが濃くなる火色と、表面に散る長石の白い粒がよく見えるCC0 信楽焼の多くは、釉薬を掛けずに焼き締める。釉薬で表面を覆わないぶん、土がどう焼けたか、炎や灰がどこに当たったかが、そのまま器の表情として残る。焼き物の世界ではこれを「景色」と呼ぶ。信楽焼のぐい呑みを選ぶというのは、ほとんどこの景色を選ぶことだと言ってもいいと思う。 いちばん信楽らしい景色が「火色(ひいろ)」だ。土に含まれる鉄分が、窯の中で十分な空気を受けながら焼かれると、ほんのりとした緋色や赤橙色に発色する。写真の茶碗でいえば、右下に向かって赤みが濃くなっている部分がそれにあたる。白っぽい土の地肌の上に、炎が通った跡のように赤みが差す。火色は、窯のどの位置に器を置いたか、炎がどう流れたかで出方がまったく変わるので、同じ窯で同じ日に焼いたぐい呑みでも、一つとして同じ色にはならない。 次に「石はぜ」。土に含まれる長石の粒は、高い温度で溶けて白く光るガラス質の点になる。粒が大きいと、焼き締まって縮む土に押し出されるように、表面で小さくはじけたり、まわりに細かなひびを作ったりする。これが石はぜで、写真の茶碗の表面に散っている白い点がそれだ。磁器なら欠点として取り除かれるものが、信楽焼では見どころとして大切にされている。 薪を燃やす窯で焼くと、もう一つの景色が加わる。燃えた薪の灰が器に降りかかり、土の成分と反応して溶け、自然の釉薬になる。これを自然釉と呼び、緑がかったガラス質に溶けて流れたものを、信楽では「ビードロ」と呼ぶ。ポルトガル語でガラスを意味する言葉から来た呼び名だ。灰が厚く積もって溶けきらずに黒っぽく焦げたものは「焦げ」、灰をかぶってざらついたものは「灰かぶり」と呼ばれる。 穴窯と登り窯、何日も続く火の番 安土桃山時代の信楽焼の水指「柴庵(しばのいおり)」。緑のビードロ、紫がかった焦げ、口縁の火色が一つの器に重なっているPhoto: Daderot / CC0 こうした景色は、窯の中で長い時間をかけて生まれる。信楽で古くから使われてきたのは、山の斜面を掘り込んで作る「穴窯」だ。一つの細長い部屋の中に器を並べ、下の焚き口から薪をくべ続ける。炎は斜面を上へ向かって流れ、器の表面をなめながら煙突へ抜けていく。器の前にあるか後ろにあるかで、灰の降り方も炎の当たり方も変わる。 穴窯で焼くときは、1,200℃を超える温度を何日も保ち続ける必要がある。窯の大きさにもよるが、焚き続けるのは数日から1週間ほどになることもあり、そのあいだ職人は交代しながら昼も夜も薪をくべ、炎の色や煙の具合を見て火を調整する。焼き上がったあとも、窯が冷めるまでさらに数日待たなければ、中の器を取り出せない。 江戸時代に入ると、いくつもの部屋を階段状につなげた「登り窯」も使われるようになった。一度にたくさんの器を焼ける効率のよい窯で、火鉢や日用品の大量生産を支えた。いまの信楽では、ガスや電気の窯で安定して焼く作り手も多い。ガスや電気の窯では灰が降らないので、ビードロのような自然釉の景色は出にくい。そのかわり、灰釉を掛けたり、窯の中の空気の量を調整して火色に近い色を出したりと、作り手ごとに工夫を重ねている。 写真の水指は、安土桃山時代に茶の湯のために作られたものだ。口の縁には火色が出て、胴には緑のビードロが流れ、右側には紫がかった焦げが厚くたまっている。大きなひびまで入っているが、それも含めて茶人たちは景色として愛でた。ぐい呑みは小さな器だが、同じ窯で焼かれれば、この水指と同じ景色を小さく抱えることになる。 唇に当たる土の粒、燗酒と冷やで変わる感触 信楽で出された刺身を盛った角皿。赤褐色の地に緑のビードロが流れ、長石の白い粒が一面に散っているPhoto: 663highland / CC BY-SA 4.0 信楽焼のぐい呑みでいちばん印象が変わるのは、唇に当たった瞬間だと思う。磁器のぐい呑みは、縁が薄く表面がガラスのようになめらかで、唇には硬く冷たい感触が残る。冷酒の切れのよさを楽しむにはそれがよく合う。信楽焼のぐい呑みは、縁にも厚みがあり、表面には土の粒がそのまま残っている。唇に触れたときにはざらりとした当たりがあるのだけれど、それが痛いわけではなく、乾いた土のやわらかさとして伝わってくる。 燗酒を注ぐと、この違いがもっとはっきりする。厚みのある焼締めの器は、注いだ熱をゆっくり受け止め、外側に伝えるのにも時間がかかる。指先には穏やかなぬくもりが伝わる程度で、注いだぬる燗の温度もすぐには落ちにくいと感じる。器そのものが少し温まってから飲むと、唇に当たる土の粒までほんのり温かく、酒の香りと一緒に土の匂いがかすかに立つ。秋から冬にかけての燗酒には、この感触がよく合うと私は思う。 冷や酒やひや卸しを注ぐときは、事前にぐい呑みを水にくぐらせておくとよい。土の細かな穴に水がしみ込んでいると、表面がしっとりと濡れたような色になり、景色の赤みや緑がぐっと深く見える。冷えた水を含んだ器は、手に持ったときの温もりが酒に移りにくくなる。 焼締めの器で飲むと酒の味がまろやかになる、という話を耳にすることがある。表面の細かな凹凸が酒をやわらげる、と説明されることもあるが、これは科学的にはっきり確かめられたことではないと思う。ただ、口に入る前の唇の感触や、器の色、手に持ったときの重さが、酒の印象を左右するのは確かだ。磁器の白い器で飲む酒がすっきりと感じられるのと同じように、信楽焼の土の器で飲む酒は、落ち着いて丸く感じられる。私にはそれで十分だと感じられる。 使いはじめの水通しと、育てていく楽しみ 信楽の谷寛窯の工房。古い木造の建物の中に大壺や器が並ぶ。信楽ではいまも多くの窯元が器を焼いているPhoto: 663highland / CC BY-SA 4.0 信楽焼のような焼締めのぐい呑みは、磁器と違って土に細かな穴が残っている。そのため、使いはじめと日々の手入れには、少しだけ気を配りたい。まず、新しいぐい呑みを使う前には、水かぬるま湯にしばらく浸けておく。土の穴に水を含ませておくと、酒のしみ込みや匂い移りを防ぐ助けになり、焼いたときの細かな粉も落ちる。毎回使う前に、さっと水にくぐらせる習慣をつけておくのもよい。 使ったあとは、ぬるま湯ですすぐだけで済むことが多い。酒器は油汚れがほとんど付かないので、洗剤は必要なときに少量だけにとどめる。洗剤をたくさん使うと土の穴にしみ込み、次に酒を注いだときに匂いが残ることがある。食器洗い機は、高温と強い水流で表面を傷めるので避けたほうがいい。 何より大事なのは、しっかり乾かすことだ。焼締めの器は水を含んだまま箱にしまうと、内側にカビが生えたり、嫌な匂いがついたりする。洗ったら布で拭いたあと、風通しのよい場所で一晩ほど置いて、中まで乾いてから片づける。 こうして使い続けていると、信楽焼のぐい呑みは少しずつ表情を変えていく。酒と水を何度も含んでは乾くうちに、表面の色がしっとりと深くなり、ざらついていた縁も唇や指に触れるたびにわずかに角が取れていく。焼き物好きのあいだでは、これを「育てる」と呼ぶ。買ったときがいちばん美しい器ではなく、使う人の晩酌の回数だけ仕上がっていく器だと思うと、毎晩手に取るのが少し楽しみになる。 いまの信楽には、昔ながらの窯元から若い作家の工房まで、多くの作り手が集まっている。1990年には滋賀県立陶芸の森が開かれ、国内外の作家が滞在して制作する場にもなった。秋には陶器まつりが開かれるのが恒例で、窯元の店先にぐい呑みや徳利がずらりと並ぶ。作り手と話しながら、手に取って唇に当て、自分の好きな景色の一つを選べるのは、産地ならではの楽しみだと思う。 ...

2026年10月14日 · 1 分 · 83 文字 · kingsworksub-jpg